文=小泉凡(島根県立大学短期大学部教授、小泉八雲記念館顧問)
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1850年にギリシャのレフカダで生まれ、アイルランドで育ち、フランスとイギリスで教育を受け、アメリカ、カリブ海のマルティニークを経て、1890年に特派記者として来日、1904年に東京で亡くなりました。生涯で地球を三分の二周近く片道切符の旅をし、約30冊の著作を世に出しました。
最初の赴任地、松江には1890年8月30日に到着し、約1年3か月を島根県尋常中学校の英語教師として過ごしました。
八雲がまず松江で魅了されたのは、晴れていても「夢の中にさす光のように穏やかな」宍道湖の靄の中の落日、つまり山陰地方の陰のある風景でした。そして風景の持つ「陰」が自分のもつ「陰」―短身、隻眼、マイノリティ(ギリシャ系アイルランド人)、父母との生き別れなど―と響き合い、いつしか居心地の良さを覚えたのでしょう。また、松江の宍道湖岸の風景は、生誕地ギリシャのレフカダ島に酷似する潟の風景であることにも不思議な因縁を感じます。つぎに、松江は神道・アニミズムに根ざした民間信仰・怪談など八雲の関心事の宝庫だったということです。それから、意外なことに、毎朝、牛乳が飲めたということです。また、ビールもステーキも手に入った。そんなある意味で今以上に西洋化された明治20年代の松江の町で、いざという時に西洋の食文化を享受できる安心感を得られたことが、健康、さらに旺盛な好奇心と探究心を生み出したのです。実は、八雲は食生活に関しては、保守的な西洋好みの面があったのです。また何と言っても籠手田安定島根県知事はじめ、同僚の西田千太郎教頭、出雲大社の千家尊紀宮司、尋常中学校の生徒、生涯の伴侶となる小泉セツなど、あたたかいホスピタリティをもった人々との出会いが生まれたことが、八雲と松江を結びつける太い絆となりました。
八雲は松江時代の休日には、人力車を走らせて市内の社寺を巡り、お札を収集し、それを友人で日本学者のチェンバレンを介して、イギリス・オックスフォード大学のピット・リヴァーズ博物館に送り続けました。それは、いまや貴重な文化史の資料となっています。民俗学者・人類学者としての好奇心を遺憾なく発揮していたのです。
左目を失明し、右目もわずかな視力だった八雲は、五感を研ぎ澄ませて松江を観察しました。大橋を渡る下駄の音や米つきの音、寺の鐘の音や地蔵堂のお勤めの声、物売りの声など、「サウンドスケープ(音風景)」という言葉ができる80年近く前から、町の音も文化や環境の大事な一翼を担うという意識でとらえていました。怪談も同じ無形の文化として、そこには「真理」を見出すことができるとして重視しました。雪女という異界の存在を知ったのも、松江の霊的環境の中でのことでした。
松江での観察の成果は、1894年に『知られぬ日本の面影』として出版され、アメリカ版の初版だけで26刷りまで達するベストセラーとなり、今日まで読み継がれ、現在も山陰のガイドブックとしての役割を失っていません。
松江に住んでいたころ(1891年)の八雲
(写真提供:小泉凡氏)
宍道湖の落日
八雲が収集した城山稲荷神社のお札
(写真提供:小泉凡氏)
『知られぬ日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan)』初版本全2巻
(写真提供:小泉凡氏)

