松江城築城
◆関ヶ原の戦い[1600年(慶長5年)]の後、功績により戦勝徳川方家臣の「堀尾吉晴」「堀尾忠氏」親子が24万石で出雲・隠岐の太守となる。
堀尾吉晴(ほりおよしはる)
尾張の国生まれ。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代に仕える。
姉川・長篠の合戦・備中高松城水攻め・山崎の合戦等で活躍。
遠江浜松12万石を拝領、後に嫡子忠氏に譲る。
堀尾忠氏(ほりおただうじ)
浜松城城主で、関ヶ原の合戦の戦いでは家康に従い功績をあげた。
◆堀尾吉晴、忠氏親子は広瀬の月山富田城に入府。
※前城主「吉川広家」は岩国へ転府
◆新たに築城場所を松江とした。
- 築城場所選定中1604年(慶長9年)に忠氏急死(27歳)。
- 忠氏の遺志を継いで亀田山(かめだやま)に1607年(慶長12年)からあしかけ5年の歳月をかけ築城。
- 1611年(慶長16年)に竣工。完成数カ月前に吉晴公死去(69歳)。孫の三之助(忠晴)(13歳)が城主となる。
松江藩主
- 堀尾(ほりお)氏 [外様(24万石)]
- 1600年(慶長5年)~1633年(寛永10年)[3代(33年間)]
遠江浜松城より[松江開府の祖 吉晴]-----[初代藩主 忠氏(ただうじ)]-----[忠晴(ただはる)]-----[無嗣絶家]- 初代藩主の忠氏は松江城着工前に死去。初代城主の吉晴は松江城竣工直前に死去。3代忠晴が城主となる。
特に吉晴公は「松江開府の祖」、今日の松江を築いた恩人として崇められている。
- 初代藩主の忠氏は松江城着工前に死去。初代城主の吉晴は松江城竣工直前に死去。3代忠晴が城主となる。
- 京極(きょうごく)氏 [外様(26万4千石)]
1634年(寛永11年)~1637年(寛永14年)[1代(4年間)]
若狭小浜城より[初代 忠高(ただたか)]-----[無嗣絶家]- 世継ぎなく1代で改易
- 松平(まつだいら)氏 [親藩(18万6千石)]
1638年(寛永15)~1871年(明治4年)[10代(230年間)(明治維新まで)]
信州松本城より[初代 直政(なおまさ)]-----[綱隆(つなたか)]-----[綱近(つなちか)]-----[吉透(よしとお)]-----[宣維(のぶずみ)]-----[宗衍(むねのぶ)]-----[治郷(はるさと)(不昧(ふまい))]-----[斉恒(なりつね)]-----[斉貴(なりたけ)]-----[定安(さだやす)]- 初代直政公は 松平秀康(結城秀康…徳川家康の二男 越前福井藩主)の三男。
- 7代治郷公(不昧公)は地上産業振興、治水新田開発による石高増により財政再建。
借金経済は改善し蓄財をつくる。そして、茶禅一昧の独自の境地を開くもととなり、茶人大名と称せられるようになった。松江のお茶文化を作った大名でもあり、名君として名を残している。
廃城令。地元の有志により買い戻す
明治8年広島鎮台は、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された。
天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった。
※当時米一俵が3円弱といわれた。
松江城国宝・重要文化財
1935年(昭和10年)「国宝保存法」により国宝に指定。
1950年(昭和25年)5月文化財保護法制定により、「重要文化財」と呼称。








